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今まで観た映画について(自分用)

沈黙

マーティンスコセッシ監督の「沈黙」を視聴。

原作は言わずもがな遠藤周作である。原作については数年前に読了済みだが、最後まで読んだ時のずっしりとした印象はぼんやりと覚えている。

スコセッシの映像を見ていると、潮騒の音だけが響いてくるような陰鬱な雰囲気のなかで、キリストのあのなんともいえない表情がぼんやりと私の脳裏に浮かび上がってきては消えていく感覚に陥る。怖いような気もする。美しいような気もする。ただ浮かんではすっと消えるのだ。

スコセッシはもともとこの遠藤周作の沈黙が大変にお気に入りだったらしい。それに彼は過去作品にも見られるようにキリストの宗教的要素を各所に散りばめている。私はキリスト教のことは半分も理解していないが、受難の出来事を描いた作品には現在まで数知れず感銘を受けてきたし、いちばん好きな映画はまさに受難の日々を描いたそのものだ。信仰とはなんだろうと今一度、真剣に考えてみる機会に恵まれた。

生きるためならば手段を選ばなないというようなキチジローのような弱い人間、キリストの為に自らの身を捧げられる強い人間。彼らは対等に救われることができるし、果たしてかれらは本当に強いのか、弱いのか?

生き続け、どんな時も祈りをささげ、懺悔を求め、司祭に導きを乞うキチジローは、果たして「弱い」のか。神を信じ続けるこころは真実なのか。キリストは答えてはくれない。「祈り」とはなんなのか。形だけの信仰などではなく、己の中にもったキリストをいかに信じ続けるか、いかに乞い続けるか、そして弱さを認め、それでも導きを望むキチジローのその姿は、みっともないようでいて、でも、誰も真似できなかったことだ。

日本人がその弱さを隠すたび、キリストから目を背けるたび、血は流れ、お互いわかりあえないまま時だけがすぎる。日本には日本の美徳や観念、文化があったようにキリシタンたちにも同じようにそれぞれの美学があったろう。ぶつかりあうばかりでは永遠にわかりあえない。パードレたちは日本人を知ろうとしたのだろうか。日本人はキリシタンを知ろうとしたのだろうか。キリシタンになりたかった日本人は、本当にキリスト教を理解して信仰していたのだろうか。「正しさ」などというものは宗教では存在しないのだと思う。外から見ればそれはただ悍ましい勘違いなのかもしれない。

感覚の麻痺なのかもしれない。信じるということは、恐ろしいことだ。祈ることはエゴでしかない。しかし宗教がなければ、人間はここまで生きてこれなかった。

果たしてそうなのだろうか。